東邦大学での想出            静岡市  中村孝昭

東邦大学理学部に入学すると、分析科学部に入部した.高校時代の仲間とカルテットやバロックアンサンブルを組み、ヴァイオリン、チェロ、リコーダーなどの楽器を担当して東京や静岡で楽しんでいた.しばらくすると習志野フィルハーモニーの存在を知り、これにヴィオラで入団した.2年の夏休みには東北大学管弦楽団の東北地方を1週間でまわる演奏旅行にヴァイオリンのトラで参加、毎日コンサートと打ち上げの繰り返しで非常に楽しかった.夏休みが終わって東邦大学に帰ってくると、オーケストラ団員募集のポスターがあったので集合場所にいってみると、フルートの中西くんが「言い出しっべ」であることが判った.なんと、フルート初心者の大口さんとトランペット初心者の阿部くんの3人でオーケストラを始めようと相談したのだった.「無茶な事をするなぁ!」というのが正直な感想ではあった.それでも中西くんの「呼び掛け」のおかげでく初心者もいたが)ヴァイオリンの経験者が私以外に3名も集まった.しかし、いったいこの人数と編成で何ができるのであろうか?高校時代に弦楽合奏団を創立した経験はあるが、そのときは各パートに頼れる人材があったのである.ヴァイオリンの経験者がいてもアンサンブルの経験者はなく、スコアも見たことがないメンバーでは「こりやあ、大変だぁ!」と叫ぷしかない. その当時、とりあえずの目榛は「部員を増やすこと」であって、そのためには春に新入生を確保するしかない.このメンバーで新入生歓迎演奏会(クラブ紹介)をしなければならない.ヘンデルのアルキーナ組曲、ハイドンのロンドントリオなどをフルート2本と弦4部に編曲した記憶がある.幸いな事に新入部員もあつまり、少しは合奏ができるようにはなったが、合奏協奏曲のようなバロックはできても管楽器の入る曲はなかなかできなかった.とにかく室内管弦楽団というからには、少なくとも二管編成のオケにしたいと思っていた.

その後、習志野フィルの団内演奏会にコレルリの合奏協奏曲でテスト参加させてもらったりと修業を積んでマンドリン部との合同演奏会をむかえた.レパートリーは少なかったがなんとか「カタチ」にはなった.(「」内の楽器を担当しながら指揮をした.)

ハイドン作曲: ロンドントリオ
バッハ作曲: プレリュード(平均律クラビア曲集より)...「DB」
レスピーギ作曲: イタリアーナ(古代舞曲とアリアより)...「Vla」
バルトーク作曲: 子供の為のピアノ曲集よリ10曲‥・「Vn.s olo」(中村編曲)

以下の、合同演奏の曲は全て、編曲を担当した.

フランシス・レイ作曲: 白い恋人たち
ポーン・ウィリアムズ作曲: グリーンスリーブスの主題による幻想曲
R.マックスウェル作曲: 引き潮

第一回定期演奏会
定期演奏会を始めるなら少なくとも年に一回の「定期」で縦続できるだけの「責任感」や「覚悟」が出来ているか?‥・少しは議論したのだが、、、無責任というか、とにかくやってしまった.とはいえ、まだ二管編成のオケとまでは言えない状態であった.エキストラでうめる方法もあるのだが、予算はないし、よそからトラがくると団員は「ヒトミシリ」をするし、、大変に悩まされた紀憶がある.それでいて、シンフォニーをやりたいなどというものだから、ますます悩んでしまった.結局ティンパニーなし、トランペットなしのシユーベルトの第五番のシンフォニーを選曲し、エキストラはホルン1、コントラバス1、ヴィオラ1、チェロ2、のみでファゴットとオーボエはなしとしクラリネットで代用することにしたのである.ルーマニア民族舞曲集(パルトーク)も小オーケストラ用のパルトーク版をさらに編曲した.

第二回定期演奏会
編曲しないですんだ初めてのオリジナル編成のオーケストラの誕生であった.部員もふえて部員たちのオーケストラに対する考え方も世間並みになってきたころであった.払は卒業してしまったのだが、就職せずに医大受験の準備をしていた.チェロの谷口くんが「勉強ばかりしているとカラダに悪い」というので結局オケの卒業は一年のびてしまった.習志野フィルの仲間には大変お世話になった.また、市川交響楽団や千葉フェスティバル・オケなどにコンパスやヴィオラでトラに行っていた関係で多くのかたがたに助けて頂いた.東京音大、東京理科大オケ、千葉大オケやそのほかの市民オケの方々にもお世話になった.

第九回定期演奏会
東邦大学の医学部には入れてもらえなかったが、埼玉医大に入学してなんとか卒業できた.しかし、国家試験には落とされてしまってクヤシイ思いをしていると、再びチェロの谷口くん(すでに医者になっていた)から「ヒマでしょ?勉強ば
かりしているとカラダに悪いからさ、、、」と再び東邦大学オケ学部指揮科に復学させられてしまった.翌年国家試験に合格し、はれて卒業となった.この定期演奏会ではティルマン・スザートの1551年の曲集から「戦争」をオケに編曲したものをアンコールで演奏したが、これが一番喝采を浴びた紀憶がある.

その他の記憶

(日)火事:その日は風が強く、自転車でヴァイオリン、ヴィオラ、チェロをかかえて帰るのは大変であろうと思われた.まだ、オケの部室のない頃だったのでチェロだけを分析科学部の部室において帰った.翌朝大学に行ってみると理学部が火事で無くなっていたのである.当然チェロは弦とエンドピンを遺して焼失しており、焼け跡にボーゼンと立ち尽くすほかなかった.この火事の御蔭で?部室を小さいながらも確保できたのかもしれない.この火事でカルテットの楽譜やオケのスコアなども焼失した.

(月)アルバイト:当時オーボエやフアゴットは中々高価であった.中古でもよいから将来は必要と考えオカネ欲しさに部員各自でバイトをした記憶があるが、うまく事が運んで楽器を手に入れることができたのはオーボエだけだったかもしれない.しかし、そのオーボエも修理に手が掛かり結局使いものにならなかった.こういったビンポーのときに力を発揮するのが谷口くんや稲毛くんたちだったように記憶している.

(火)結婚:団内で結婚した連中も多いのではないか?ホルンの坂岸くんとヴァイオリンの坂西さん、コンパスの鈴木くんと竹本さん、フアゴットの菅野くんと森さん、稲毛夫妻、中浜夫妻、小北夫妻?などなど、

(水)にもなにか思い出しそうですが、、、

なにはともあれ思い出したことをダラダラと書き送ります.
参考になったでしょ?
では、速達が明後日にでも付くとおもいますので参考にして下さい.
急いでタイプしたので変換ミス等読みにくい点、判りにくい点があるかも知れませんが
なんとか解読してください.では、サヨーナラ!

中浜隆之さま


: もともとは中浜氏へのメール。第30回定期演奏会のプログラムへ中浜氏に
「室管ことはじめ」について書いてもらったさい、資料として中村氏から中浜氏への
メールとして書かれた。中浜氏をとおして、中村氏には掲載の承諾をいただいています。(齊藤)