第30回定期演奏会の開催おめでとうございます。
私は楽団創設数年後、学生としてメンバーに加わりました.その当時の記憶をたどってみます.東邦大学室内管弦楽団は、はじめ同好会として発足しました.当時理学部の学生だった中西氏(理学部)が、大口さん(理学部)、阿部さん(医学部)とともに、オーケストラの創設を呼びかけたのが始めと聞き及んでいます。この時、高校時代に楽団創設の経験を持つ中村氏(理学部)がメンバーに加わりました.さらに、ヴァイオリン経験者が数名加わってかろうじて室内楽団の形ができました.その後のマンドリン部との合同演奏会では中村氏が指揮と編曲を担当し、はじめての演奏会を行うことができました.当時は小人数の部員しかいませんでしたので室内楽にとどめるべきか交響曲を手がけるかについて先輩がたは悩んだようですが、結局、シンフォニーを主体とする楽団独自の定期演奏会を少なくとも年に1回行おうという方向性が決まったわけです。シンフォニーをやるには、メンバーやパートが足りないことから、かなり思い切った選択だったようです.そこで、小編成でもできるシューベルトの交響曲第5番を選曲し、中村氏の指揮・編曲で第1固定期演奏会を立ち上げることとしました。交響曲も基盤は弦楽であることから、初期のころは部員をできるだけ弦楽で固めるようにしました.管楽器はあまりいなかったことから近所の市民オーケストラ習志野フィルハーモニーの方々を準部員として迎えました.第一回定期演奏会は多くの障壁がありましたが−生懸命やって演奏会を成し遂げたときは本当に感慨深いものでした。
当時の部室は現東邦高校のある場所にありました.当時は理学部もこの敷地にありましたが、楽団発足当時は部室がなかったときいております。そのころ理学部で火事があり、おいてあった楽譜や楽器が焼失してしまったそうです。幸い、けがの功名で、この火事をきっかけに部室を確保できました。昔の部室は木造平屋建てのおんぽろ部室でした.トイレは屋外にあり、夜の練習時などは女子部員が嫌がっていた記憶があります。このころは合奏用ホールがなくいつもジプシーのように移動しながら練習をしていました.当時の部員数は十数名しかいませんでしたがとてもアットホームな雰囲気がありました.人も楽器も譜面もない状態でしたが、夢をもってがんばりました.皆で分担して写譜をしてパート譜を作成したり、また、定演のポスターはすべて手作りで夜街頭に張りに行ったりもしました。
第2回定期演奏会は谷口氏(医学部)を部長として名曲モーツァルトの40番を手がけました。この時クラブ昇格も果たし、楽団は大きく飛躍しました。しかし、まもなく多くの部員が退部し、10名未満となり危機を迎えることとなりました。部長は稲毛氏(薬学部)と交代し、苦難の時を迎えました.しかし、将来の夢のためには定演だけは続けて行こうという強い意志をもってがんばりました。
当時のクラブでは部員の団結を重視しました.お互いの心のつながりが良い演奏になることを信じて技術もなく良い楽器もない状態で精神力だけでやってきたことは舞謀だったかもしれません。初期のころはエキストラに支払う予算がないことから習志野フィルハーモニー、市川交響楽団、東京音大、千葉大、東京理科大などに人達に協力を頼み、自前の楽器で楽団に参加してもらいました.私自身も千葉大まで出かけてパート練習をしたり、市響の演奏会の後、張り込んで協力をお願いしたりした記憶があります。もちろんノーギャラで楽団に参加してもらうわけですから、彼らとの人間関係を大切にするようにしました.その功を奏してか?楽員同士の大学を越えたカップルが多く誕生しました.もちろん、学内の団員同士の結婚も多かったのですが、このことは、当時の室内管弦楽団での日々が良き思い出として残ったことの現われかもしれません。
クラブ昇格時、顧間として幾瀬マサ教授(当時薬学部長)にお願いしました。私はその後大学に残り、幾瀬先生の次に顧問を引き受けました.それから理学部の対馬先生、現斉藤先生にバトンタッチしました。その後、部室は高校で使っていた旧音楽堂に移り、さらに現部室に移動し、現指揮者の山崎滋氏やトレーナーの相原美音さんを迎えることで部員の技術レベルは飛躍的に向上し現在に至っています。
(なお、貴重な参考資料を提供いただきました静岡市の中村氏に感謝いたします。)
注: この文章は第30回定期演奏会を記念してプログラムに書いていただいたものです。(齊藤)