化学結合の量子性から見る物質の機能性

(分子研研究会”2010年の分子科学を語る” 
1998年10月19日 岡崎コンファレンスセンターにて講演)

物性科学にとって80年代・90年代は実り多い時代であったといえる.量子ホール効果・重い電子系・高温超伝導・量子スピン系・メゾスコピック系など,多くの物性研究者の興味を今も惹いているトピックスがこの間に登場した.これらにほぼ共通しているのは,比較的電子相関が強い低次元(特に二次元)の系で,量子性(系全体での位相コヒーレンスやスピンの交換トンネル)がマクロな電磁現象,特に磁場効果や磁性として発現することである.

分子性物質についてみると,超伝導(1980年)や強磁性(1991年)の発見を経て,有機分子や金属錯体のつくる系が,原子からなる従来系に匹敵する精密な固体物性の研究対象として確立され,さらに角度依存磁気抵抗振動(1988年),磁場誘起スピン密度波(1981年)など新しいトピックスを提供し,物質や測定手段の多様性も大きく拡大した.反面,超伝導や強磁性などの達成後の目標が見えない,分子の個性が電子系の舞台装置にとどまっていてまだ主役になっていない,実用面との結びつきが希薄すぎる,という批判もありうる.

 物性科学のキーワードの1つが量子性であると述べたが,分子科学の世界ではむしろ量子性は当然で平凡なことである.電子移動や化学反応は分子軌道の位相干渉で起き,分子の磁性は量子スピン一重項のトポロジカルな配列で決定される.分子科学者が普通に安定化合物の構造を考えるとき,量子性は無意識に考慮される(化学結合の量子性).問題はそれをマクロな機能や新物性にどう結びつけるかである.従来系では,キャリア注入可能な少数キャリア系や電子相関による局在で量子力学的対称性がひとまず部分的に破られた系で,温度を下げて量子性を発現させている.系のサイズが比較的大きいので,磁場による電子運動の量子化という要素も加わる.機能性は系の性格が古典的なものから量子的なもの(またはその逆)に切り替わるところで出てくる.

 もともと量子性の強い分子系では,逆に分子レベルでの古典化(結合の量子性の抑制,量子力学的対称性の破れの導入)が今後のポイントになるのではないだろうか.もう少し具体的にいうと,熱エネルギーで擾乱される程度のごく弱い(非結合性)化学結合で基本電子ユニットをつなげた分子を考えるということである.いわゆる超分子=メゾスコピック系分子の電子物性を考えることでもある.これは分子に(近似的)縮重状態あるいは互変異性をつくることと同等である.縮重準位を“スピン”と見なせば,磁場以外にも種々の外力で物性が敏感に変化する系の構築が考えられる.スピンに換えて超分子内で考える自由度としては分子の個性に応じて,電荷位置・ヤーン−テラー歪・分子内回転などいろいろ設計可能で,それに応じて電場・光・機械的力・物質濃度などいろいろな外力で電子物性が変調されるようになると,分子科学者にとっていっそう魅力的になってくる.また超分子のサイズがある程度大きくなれば,分子内の電子状態が磁場で量子化される可能性も出てくる.弱い結合とは一見消極的な戦略という印象を与えるかもしれないが,そうではない.弱い結合でユニットの配列をうまく制御して超分子系を構築するには,分子科学上の高度な知識が要求される.その意味でこれは分子科学の最先端の研究課題である.

以上の話題を軸として,さらに今後重要になりそうなポイントとして,少数キャリア系の魅力,ヘテロ構造(無機金属/分子性物質,異種の分子性物質どうし,さらに分子と外部との界面や接合),高温ないし励起状態の物性,などを挙げて,分子性物質の電子物性研究の将来を考えてみたい.